さてと。『ぼくたちは勉強ができない』(ぼく勉)の総括感想です。
はじめにお断りしておきます。
これはぼく個人が「ぼく勉」とどのように向き合ったか,いま「ぼく勉」に対してどんな風に思っているのかということを書いただけの文章です。書かれている内容については個人的な想いであり,この想いを共有してほしいとか「ぼく勉て,こんな漫画だったよな!」とか主張するつもりは一切ありません。
インターネット・SNS全盛の今日,感想の共有は一つの楽しみ方でありますが,この作品に対する想いも,感傷も,作品の捉え方も,一人ひとりが有しているものだと思います。漫画作品に対して読者の数だけ受け止め方があるように,「僕はこう思った」ただそれだけの話です。
ぶっちゃけ「ぼく勉」の内容について細かくあれこれ捉えて論評したり考察したりするものではありません。作品内容について絶賛も強い批判もありません。一人の読者として思ったことを淡々と書きます。
そんな文章だという前提で読んでいただければと思います。(興味関心がある人は続きをどうぞ)
ラブコメ...というか漫画の話
割といい歳したオッサン(既婚)であることを自覚していますが,僕は漫画が好きです。特にラブコメが好きです。
創作物としての物語は文章や絵といった表現によって描かれます。そこにある物語も,人物も,全て作者が生み出した架空の存在です。別に実在するわけではない。命ある存在としてそこに在るわけでもない。それが様々な表現によって,人物が,出来事が描かれ,世界が創り出されていく。
本来ただの文字と絵に過ぎない「漫画」というものに,生きた存在のようなキャラクターが生まれます。それぞれのキャラがその世界の中でかかわりあう中で,まるでそこに存在するかのような世界と物語が作られていく。それが「漫画」をはじめとする創作物の特徴だと思います。
僕が「ラブコメ」が好きなのは恋愛話が好きということもありますが,「ラブコメ」はそうした創り出されたキャラクターがまるで生きている人間のように他者に恋し,愛し,葛藤し,試行錯誤を繰り広げる姿が描かれます。時にせつなく,時におかしく描かれるそれらの登場人物はまるで生きた存在かのように「そのキャラクター(人)の生き様」を描いてくれるのです。
「恋」はそんな人間の最も情熱的な部分が表れる部分です。ラブコメの面白くも夢中になれる部分は,そんなキャラクター(人)の人間らしい部分,苦悩も喜びも描いてくれるところだと僕は思っています。
もちろんキャラが可愛いから好きというような人もいるでしょう。愛すべき存在だから一生懸命推すといった反応をする人もいるでしょう。そうしたキャラクターの様々な側面も魅力的であることは認めますが,何よりラブコメを読んでいて面白いのはそのキャラが物語の中でどんな風に生き抜いたのかという部分だと個人的には思います。
そうした「生きた人物」としての漫画のキャラクターはどのようにして生まれるのでしょうか。名前,容姿,性格,人物が抱える背景,そうした諸設定が属性として存在するのは事実ですが,それだけではそういう属性を持ったキャラクターという「記号的存在」に過ぎません。
それが「生きた人物」のように命が吹き込まれるのは,そのキャラが物語の中でどんな風に生き抜いたのか。与えられた設定・状況が透かし見えてしまわないように,物語の中で様々な出来事を経て決断し,行動した結果が過程として描かれるからこそ「生きた人間」のようにキャラクターが思えるようになるのだと思います。
そうやって「命を吹き込まれたキャラクター」を通じて描かれた世界だからこそ,その登場人物の生き様に,物語の推移に夢中になれる。そういうものじゃないかと思います。
「ぼくたちは勉強ができない」の話
ぼくたちは勉強ができない(ぼく勉)は,ニセコイというジャンプ最長のラブコメの終了と入れ替わる形で登場しました。
そこに描かれる人物は,様々な属性を作者に与えられ,他者と関わりあう中で葛藤や成長を遂げる姿が描かれていたと思います。少なくとも「できないをできるようになる」という夢の実現に関してはそれなりに「生きている感」があったようにも思います。
「ニセコイ」という今後の「ラブコメの分水嶺」となった尖がった作品の後継ということもあり,ぼく勉はかなり配慮して調整されたキャラ設定と物語展開で進んできたと思います。そこに物足らなさを感じた人はいたかもしれませんが,少なくとも僕はこの世界観に対して関心を持ち,そこで葛藤を続ける登場人物たちの生き様にそれなりに惹かれながら読んできました。
しかし,ある頃からだんだんとこの世界や登場人物に対する興味関心が急速に薄れていくのを感じました。理由は色々ありますが,多少乱暴にまとめると「彼(彼女)らの恋や生き様」に関心を持てなくなってしまったのです。
それは多分に唯我成幸という人物に対して急速に関心を失ってしまったことが大きいのでしょう。ifルートを含めかなり長大な物語となりましたが,「夢と恋」という二つの軸に対してそれなりの想いや言動が伴って描写された女性陣はともかく,唯我成幸の「恋」の部分に「生きた人物感」を感じなくなってしまったのです。
僕の気持ちがどうしてそう変化したのか説明するために一応述べておくと,唯我成幸が各ルートにおいて当番ヒロインを好きになるロジックは
- 文化祭の花火で手を繋ぐ
- 花火で手を繋いだことでその人物(ヒロイン)を意識してみるようになる
- そのヒロインを好きになる
というものです。
種が明かされてしまっていて,結ばれるヒロインも決まっている。
余多ある恋の対象の中から「なぜその子を選んだのか」というプロセスを描くカタルシスがないからか。結論が見えてしまうから興味が持てなくなったのか。というと必ずしもそれだけではないように思います。なぜなら,そうした「結果は分かっている」系のラブコメでも楽しめる作品はあるからです。
ただ「楽しめる作品はある」といっても,読み手の興味・関心を維持しながら唸るような「恋の過程」を描くのは大変です。積み重ねられた伏線。主人公と他者との会話,かかわり。そうしたものを丁寧に描写してこそ「ああ,だからこのヒロインに惚れたのか」という過程を楽しむことができるわけです。
しかし何というのかな,実際に描かれたものに対して「僕は」あまり感じるものが無かった。うるか編,理珠編,文乃編,お話が進んでいくにつれ物語の状況はますます記号的に感じられるようになり,そこで描かれる世界は設定的に感じられるようになった。そして最後には生きていたはずのキャラクターがまるで記号のように感じられるようになった。
ただそういう設定を持っている記号的存在。そう思ったらそこにキャラクターに「人間」を見出すことができなくなり,そうした存在の「生き様」に対して何も感じなくなってしまった。長々と書いてきたけれど,そういう事なんだと思います。
Twitterでこの燈矢のセリフを何回か呟きましたけれど,これは掛け値なしにそのまんまの意味でこんな気持ちでした。ぼく勉の登場人物の「生き様」に対して何も感じない。対象に関心を持てない,無関心だからこそ感想を書くのもやめてしまいました。
おわりに
こんなところまで根気よく読んでくれた方,ありがとうございます。
最初に言ったように,僕が漫画やラブコメを読んでいて楽しいのはそこに描かれているキャラクターが命を吹きこまれ,物語を紡ぎ出し,その「生き様」に関心を抱くからです。このキャラはどうしてこういう選択をしたのだろう。この先どうなっていくのだろう。そんなそのキャラの「生き様」が知りたいからこそ漫画を読みたくなる。物語の果てまで付き合いたくなります。
僕は「ぼく勉」にそれを感じられなくなってしまった。ただそれだけの話なのです。
いま「ぼく勉」を楽しんでいる多くの方々は,ここまで描かれている物語に「命」を感じ,そのキャラクターを「人」として捉えてその生き様を見届けられているのでしょう。
それは素晴らしいことだと思いますし,そうやって楽しんでいる読者がいることは作品にとっても幸せだと思います。他の人がそうやって楽しまれていることを,一読者として本当に良かったと思っています。
しかしまあぼくに関しては,
なのでした。(終)
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