さてと。『週刊少年ジャンプ 2019年第3号』『ニセコイ』 番外編 チケット の 感想です。
特に感想は書く予定はなかったのですが,なんか求められたような気がするので書いてみる。
今回の番外編,端的に言えば週末封切の『ニセコイ』実写版のコラボレーションというか宣伝である。なので内容もそんなものだろうと思っていたし,事実その通りでした。
なのであんまり感想めいたものが出てこなかったのですが,週末には3人で映画を見に行く予定ですし。せっかくなので触れておこうと思ったり。
総括としての「チケット」
最初に感じた印象はあんまり『ニセコイ』ぽくないなというものでしたね。連載当時のそれとはだいぶ風味が違うといいますか。まあ映画の宣伝ということが多分に影響していたのかもしれない。
冒頭のチケット入手から,映画の褒めちぎりのシーンについてはまあ「宣伝だからな...」と思いつつもちょっと滑ってないかとか思わなくもなかったんですけれど。多分にいろんな思いがあって描かれたのではないかと推察します。
これから上映される映画の成功を期待して,盛り上げていくという意図もあるでしょうし。一条楽と桐崎千棘の物語としての『ニセコイ』を描き切った以上,その恋の結末についていくらでも肯定しておきたいという気持ちもあったでしょうし。
『ニセコイ』の結末については一部のファンから"いろんな"評価をうけたのは事実だと思いますが,そうした物語を描きたいと思い描き切ったものですからね。それについては作者は自信をもつべきだと思いますし,自分の子どもとしてしっかり守ってあげる必要がある。
楽の最後の決断にたいしてあれこれ読者が思う「余地」があったのは,一つは彼の選択が一見「漠然としていて」選ばなかった未来と比べて「本当にそれを捨てるほどの理由があったの...?」と思われるような描写しかなかったからだと思うのですよね。
今回のお話は楽が「二つの好き」を認識した第199話から恋の決着がつく第226話までの間のどこかの話であると思いますけれど(そうでないと辻褄が合わない),今回楽と千棘にこういうセリフを言わせたのは自分たちを模した漫画作品のキャラクターを評することを通じて「この二人はお互いをそんな風に思う関係なんだよ」と示したかったであると感じます。
そして二人のデートですが...。
こうした「中身のあるデート」というのは実は『ニセコイ』本編ではほとんど描かれていなかったんですよね。いわゆる定番デートという,ゲーセンに行きラーメンをすするような「偽物の恋人としてデートしてますよ」的な描写はありましたけれど,デートの最中のお互いの心情が分かるような素敵なデートってのはあまり記憶にないんだよなあ...。
そういうことも多分に「なんで千棘だったの?」と思うファンが生じる余地を生み出したのだと思います。だからこそ,今回の映画デートでは二人の心の動きが割ときちんと描かれていたんだと思いますね。
途中までは千棘の「誤解」に基づくドキドキな心情が描かれていて。楽の方はその誤解に気づかないままお話が進行し,「ああ,いつもの一人相撲のニセコイだなあ」と思わせつつ。
最後に楽にこう言わせることで,楽自身も千棘に対して「キスしてもいい対象として考えている」ということを述べさせる。言い換えれば「恋する相手である」と気持ちを示させている。
「二つの好き」と言われていたことが,こうしたデート描写を通じてしっかり描かれたこと。本来連載中に描かれればよかったけれども描くことができなかったことを,「実はそうだったんだよ」的な表現で描かれたからこそ,色んな立ち場の読者が割と肯定的に捉えることができた要因なのかなと思ったり。
まあ,ある意味「作品の修正」であり「作者の言い訳」でもある。しかし自身が自信をもって送り出した結末に対し,もろもろの受け止め方をされたことは不本意だったでしょうし,その気持ちは分からなくもないです。
『ニセコイ』という作品は古味直志先生が描き切った一大ラブコメである。読者としては自分が創り出したものに対して自信をもって,それを守り続けてほしい。そう思いました。
連載版『ニセコイ』との違い
さて,最初に『ニセコイ』ぽくないとか,風味が違うということを述べましたけれど。
一つには千棘と楽てこんな奴だったけ...? というのがあるんですよね。
楽に恋している千棘が楽の一挙一動にあれこれ意味を考えてオタオタしたり,テンぱったりするのは懐かしいニセコイなんですけれど。まあ何気ない表情ですとか。楽がキスのことを気づいていなかった時の怒り方とか。
あれ,千棘ってそういうキャラだったけ...? と思うような反応ではありましたね。
このシーンなんかも多分連載当時だったら大コマで拳骨でグーパンチだったと思うのですよね。こんなポカポカとか女の子らしい(失礼)千棘さんじゃなかったと思うんだよなあ...。
もちろん,そっちがいいということではないです。
千棘の暴力描写についてはコメディということもありかなり強調された表現が多かったと思いますけれど,そうした表現を好まない読者も多々いたということもあり調整されたのでしょう。
なにより,好きな人に対する乙女の反応として「このくらいが自然である」ということを漫画に反映したということだと思います。本来これでいいのに,そう描いてこなかったからこそ「あれ千棘ってこういうキャラだっけ?」と思わせちゃうのは,まあ何と言いますか...業を感じますけれどね(笑)
楽についてもね。
相変わらずの鈍感野郎で千棘の気持ちに気づかないままお話は進むんですが,最後に「キスするなら...」とキスを前提に心情を吐露させていますよね。
これだって連載中に読んだら「は?」だったと思うのですよ。「二つの好き」という事象自体がそもそも不誠実ですし,そこに真実味を感じられなかったと思うのですけれど...。いや,お前千棘に対してそういうこと思っていたの...? と感じてしまうような楽こそ連載中の楽だったと思うのですよね。
それが作品が完結した後だからこそ,そこまでは思わないというか。まあこの時にはそんなことも思えるくらいの感情を持っていたのね...とまあ受け止めることもできるというか。まあそんな感じ。
今回のお話は単体で見れば「お可愛らしいデート」を通じたコメディとして読めるかなと思います。最初に述べたように映画の宣伝である以上,作品進行に縛りがあったとはいえ,無難にまとめられているのかなと。
登場人物について
今回の番外編は楽と千棘以外の主要キャラは一切登場しませんでした。それは当たり前だと思います。
作品がすでに完結している以上,ラブコメの「ラブ」にかかる部分を新たに描く必要は一切ありません。小野寺さんにせよ,万里花にせよ,登場させても何の意味もなかったでしょう。この割り切り方で正解だったと思います。
その二人を登場させれば乙女たちからアタックや楽の葛藤,最終的に選ばれるであろう千棘との対比...。『ニセコイ』連載時に抱えた構造をそのまま描かなければならないことになる。
既に物語が完結し,楽と千棘が結ばれている以上そんなものは不要です。最終回,マリーはともかく小野寺さんは表情が描かれませんでしたよね。その後の単行本おまけ漫画についても。
小野寺さんが描かれないのはきちんと理由がある。それは終わった恋,決着がついた恋だからです。結ばれた二人と関係ない女性が世界に入り込む必要はない。
小野寺さんについては第228話,教室で一人いた一条楽に声をかけずに去っていくシーン,あそこで気持ちの決着がついている。なので卒業式以降小野寺さんの姿は一切かかれることもなく,多分今後も登場しない(むしろその方が良いと思う)。
実写版『ニセコイ』は楽の変顔とかコメディが売りのように言われています。実写版はコミックと違うのでそれならそれで良いのでしょう。
個人的に面白いと思っていたのはラブコメとしての『ニセコイ』の「ラブ」の部分だったので,そういう意味では映画は全く別物として観なければ楽しめないでしょう。
映画『ニセコイ』をご覧になる方は,一端漫画のことを忘れて,心を真っ白にして観れば楽しめるのではないかと思います。
まる。
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*画像は「ニセコイ」番外編 チケット,同第228話 より引用しました。
画像引用は中止しました。