春場ねぎ先生の『戦隊大失格』がアニメ化するそうで。おめでとうございます。
なんと戦隊大失格をアニメ化してもらえることになりました!
— 春場ねぎ ⑧巻12/16発売 (@negi_haruba) 2022年12月6日
監督はさとうけいいちさん!
いい作品になるよう、原作者としてできることを頑張っていきます! https://t.co/o6NS1lpKpK pic.twitter.com/pphEy7dKIx
戦隊大失格は第1話から追い続けている作品なのでこれは目出度いですね。ねぎ先生というとやはり「五等分の花嫁」の印象がとても強いでしょうけれど,ところがどっこいこちらの作品も面白いと僕は思っていますよ。賛同者がどのくらいいるのか分かりませんが。
というわけで,せっかくのアニメ化ですので久々に感想がてら僕なりの「戦隊大失格」の楽しいポイントを紹介していきたいと思います。アニメ化で急にぐぐってみた貴方の一助になれば幸いです。
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1.主人公は「怪人」であり,名も無き「一戦闘員」である
まずはじめに,この物語の主人公はいわゆる怪人側にあるということです。
「戦隊」大失格というタイトルから,所謂ニチアサの戦隊ものをイメージされる方もいらっしゃるかもしれません。確かに戦隊もののフォーマットに沿った5色の「戦隊」はいますし,戦隊と争う組織グループとしての「怪人」もいます。そうしたニチアサヒーローものの世界観として「敵幹部」「戦闘員」のフォーマットは踏まえていますが,あくまで主人公は名前も無い一人の「戦闘員」です。ネームド幹部ですらない。
そう,つまり本作は
- 戦隊の世界観を「怪人側」から見てみたらという視点に立ち
- 主人公をいわゆるやられ役の名も無き「一戦闘員」に置いている
のが特徴なのです。
ですからニチアサヒーローものの戦隊ものとは全く異なります。戦隊側にも怪人側にも開示されていないさまざまな背景があり,いわゆる戦隊ものにありがちな勧善懲悪のコメディドラマはそこにありません。
視点が「怪人」,それもいわゆるやられ役の有象無象の大量生産「戦闘員」にあるからこその物語展開がそこにはあります。この独特の世界観を前提に読むのが「ポイントその1」です。
2.もしも悪の組織が下っ端(戦闘員)だけだったら
この世界においては(初期設定において)世界征服を企んだ悪の組織の幹部は正義の戦隊によって淘汰され,残るのは幹部ですらない戦闘員のみという状況になっています。戦隊側は「存在する理由」を残すため,残された戦闘員は「生き残るため」に契約を結び,毎週日曜日に出来レースを演出することで共存しているのです。
共存と言えば聞こえがいいですが,実際に行われているのは正義のヒーロー役の戦隊によって強制的に演出される「疑似戦闘(出来レース)」です。戦闘員たちは今は亡き?幹部によってつくられた貧弱貧弱ゥ!な身体しかもたないけれども不死の存在なので,永遠にこの茶番に突き合うしかありません。ぶっちゃけこれは戦隊側による搾取にしかみえない。(そういう描写は戦隊ものが好きな人には面白くないかもしれません)
そんな一方的搾取に近い状態にあるなかで,いつしか抵抗することも世界征服する夢も諦めてルーチンワークのようにニチアサ決戦を演じてきた戦闘員たちの中で,ただ一人「意識を変えた存在」だったのが本作の主人公「戦闘員D」なわけであります。
彼もまた,幹部によって無から作られた大量生産品,一戦闘員に過ぎません。
戦隊の構成員だったら平役の存在ですらサクッと倒せるお気軽やられ役程度の能力しかありません。このあたりニチアサ戦隊の宿命とも言えますが,実際にヒーロー側は戦闘員を個々の存在として見ていませんし,視聴者側もそんな番組の絵面を構成する一部品ぐらいにしか思っていないわけです。そもそも脅威として描かれていない,それが戦隊ものにおける「戦闘員」です。
こうした戦隊のあるある的な世界観はそのままに,いつもやられっぱなしの戦闘員,戦隊から茶番に12年も強制的に付き合わされている戦闘員の立場から「反抗」ののろしを上げてみたらどうなるのか。
そんな無理難題に挑戦していく中で,主人公である戦闘員Dくんの葛藤と成長を描き続けていく。そんな下克上物語こそ本作のメインテーマとなるわけですが,そこを楽しめるかどうかが本作を楽しむポイントその2かなと思います。
3. 葛藤の中から生み出されるもの
状況は圧倒的に不利,知識も経験も能力も一戦闘員のDくんにはありません。彼にあるのは「世界征服してやる」という怪人としての矜持と「変身能力」です。
この変身能力を用いて人間に擬態し,戦隊に潜り込むという「腹破り作戦」を敢行するわけです。無論人間としての知識も無ければ経験もないDくんは毎日が命の綱渡りです。
半強制的に協力者となった戦隊側の反逆者・錫切さんや別の思惑でDと協力するおとになる戦隊側の平役・桜間のサポート?を受けることで次々の難題をクリアしていきます。こうした戦闘員Dの葛藤と成長していくところに「下剋上もの」として見た物語の面白さがあります。
「変身能力」を用いて桜間と入れ替わる形で大戦隊に入隊し,ドラゴンキーパーの隙を伺いながら大戦隊の中で位置取りを作っていきながら不可能と思われた「一戦闘員が大戦隊を倒す」に向かって着々と進んでいきます。と同時に,彼の内面的な葛藤・成長もあるわけです。
- 人間とはどんな生き物なのか
- 人間として擬態してる自分と周囲の人間との関わり合いの中での大戦隊への「印象変化」
- 自分にとっての「敵」は誰なのか
- 自分は「何」がしたいのか
いつしか彼の中で大戦隊は本当に自分の敵なのか曖昧になります。ともに過ごした一人ひとりの人間を見た時に,必ずしも敵ではないのではないかとい想いが逡巡するようになったわけです。
一戦闘員としての自分と人間として擬態した大戦隊の一員としての自分。そんな迷いのなかで彼が何を見つけ出すのか。そこが本作を楽しむポイントその3なのかなと思います。
客観的視点で見れば構図は明らかで,今Dくんからみて人間の中には「敵」と呼べる存在もいれば「共存できるかもしれない」存在もいる。もちろんそれは今自分が人間として擬態しているから得られた感情であり,ひと度自分が怪人の姿に戻れば相手からは向けられることが無い関係性です。
それが前回の第76話「逆向きになっている」で描かれました。このタイトルはDが窮地を逃れる時の姿勢を表していますけれど,と同時に「怪人側であるにもかかわらず戦隊で一緒に過ごした仲間を敵として見られなくなっている」「戦隊は全てが悪い人間だけではなく共存できるのではないか」という本来の戦闘員の立場から見れば価値観が「逆になっている」ことも表しているわけです。
こうした描写が実に面白いというか秀逸だな~って僕は思うんですけれどね。この辺の葛藤の先に何があるのかなってのが一つポイントなんじゃないかなって思うので。
以上,僕が「戦隊大失格」を読む時のポイントでした。
ぶっちゃけ面白い・つまらないは人によってそれぞれです。面白いと思って読んでくれる人が増えればうれしいですし,つまらないと思っている方に無理の勧めるつもりもありません。それこそ作品に対するアウトプット(感想)なんて人それぞれですからね。
もし楽しめそうな方は是非第1話からお読みいただければ幸いです。
ここまでのお話は現在無料で公開されているそうです。
第77話 「迷路」 感想
で,今週のお話です。ここからは第77話の感想になるので,できれば先に第76話まで読んでほしいところです。
グリーンキーパーを倒すために尾行し,その居住地と家族を見付けるところまで来た前回。思わぬ形で「同期」の明間さんと浦部くんに出くわしてしまったために露わになったDの「迷い」,そこに暗殺相手の千歳ことグリーンキーパーが乱入ってところで引き。
で,今回もまた前回の「対」となる話で,戦闘員Dの揺れを大戦隊側がどうみているのかというお話なんですよね。大方の予想通り情報屋でもある千歳にはDが桜間に擬態している戦闘員であることがばれていました。その上でDの想いを探っていたわけですが,そんなDの葛藤に「落胆した」と千歳は言っていました。
これなー。そういう反応なんだ...ってやや意外だったですけれど,考えてみれば大戦隊側から見れば当然のことなんですよね。千歳(グリーンキーパー)とDの会話を引いてみましょう。
「お前は俺の敵だな!」とわざわざグリーンキーパーに念押しするあたり「敵なのか,敵じゃないのか」というDの葛藤がみてとれます。それはDが桜間に擬態して大戦隊の一員として過ごした日々から得た「仲間意識」もあれば,「赤刎のようにあくどいことをしているわけじゃない,倒すべき敵ではないのではないか?」という意識から生じたものですよね。
それに対して千歳はこう返すわけです。
おまえにとってはそうかもな
戦闘員は大戦隊の駒に過ぎない
Dが擬態桜間と戦闘員の二つの立場の狭間で葛藤する中で,目の前に立つ戦闘員Dに対してあくまで「戦闘員」として扱う千歳。この時点で立場のギャップがあるのですが,この答えは千歳としては当然です。
大戦隊は何らかの理由で...戦闘員との茶番を続ける必要があり,そのために演じてもらう存在でいてもらう。それだけの存在なわけです。敵としてすら認識されていない。ただ千歳はこれまでのDの言動やらから彼が何かを為し得ようとしている,そのために「敵」である大戦隊に潜入していることを理解している。だからこそ「おまえにとってはグリーンキーパーは敵なんだろう」といってのけているわけです。
と同時に「落胆した」とも言っています。
その理由は明快で,
己の敵かを相手に問う姿は実に無様だった
自分の敵ぐらい自分で決めろ
怪人ならとことん悪く自分本位であれ
という想いがあるからです。これ,面白いなと思いました。
千歳は「落胆した」としてその理由を述べましたよね。落胆というのは「相手に対して描けた期待値」とそれに対する現実ギャップから生じる言葉です。千歳はDに対してより高い「何か」を期待していたはずなんですよね。
そこには蔑みもなければ侮りもありません。Dを一人の存在として認識し,評価した存在として見ていたわけです。それはレッドキーパーから神具を奪い取った時の赤刎の怒りからも窺えますし,対峙する中でDを脅威に感じたブルーキーパーにも通じるものです。
つまり千歳はDを単なるやられ役の名も無き一戦闘員としてみていない。自分やその家族に脅威を与えうるなら敵としても認識するし,敵として自分を見ないのであればまた「別の関係性を築ける存在」として認識する可能性すらある。
だからこそ「敵か味方か」という二元論に陥ったDに対して落胆したのかもしれない。千歳がDに投げかける言葉は厳しいものばかりでしたけれど,それは最初に述べたように一戦闘員として扱うためだからではないからです。
もしDが自分や同期を「敵」として認識できないのであればお前にとっての「敵」は何なのか
そんな問いかけを通じてDが今抱える葛藤から「Dが本当に目指したいもの」を見つけ出してほしかったんだと思うんですよね。それは戦闘員と人間・大戦隊との共存なのか。Dが倒すべきと考える存在は何なのか,自分で答えを出してほしかったんだと思うんですよね。
一読者としての勝手な妄想としては,Dの目指すべきものは「共存」なんだろうなあと感じています。敵と味方という役割で二元化されるのではなく,共に相手を尊重し認め合い共存できること。双方が争うのではなく,世界を分かち合えること。そのあたりが最終的な落としどころというかDの目標となるのでしょう。
「正義と悪」と強制的な役割分担による「偽りの共生」ではなく,真の共生。
実際にこれまでDは大戦隊にまぎれこみ,活動する中でそれを実現しつつあります。だからこそ戦闘員との新たな関係性を千歳も感じたのでしょうし,単純に敵か味方かに区分けしようとしたDにも落胆したのでしょう。厳しい言葉は気づきを促すものでもあったはずなのです。
とそこに,レッドキーパー・赤刎登場。
言うこと成すこと相変わらずの粗暴者といいますか,クズ野郎の香りを漂わせていますが,この乱入は千歳とDの関係に大きく影響しそうですね。
赤刎乱入のせいで起きた森林火事の先には自分の大切な人が住む家があります。そのことはDも知っている。立場上怪人討伐のために振るわなきゃいけない千歳,恐らく居住地すら秘密にしている以上家族がいる事は赤刎にもばれてはいけないことなのでしょう。
そんな窮地に立たされたグリーンキーパー・千歳を救うのがDなのではないか。そこで千歳とDが奇妙な共存関係をつくるのではないか。
そんな物語の先々の楽しみを感じ取った,第77話でした。まる。
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